映画『ブルーボーイ事件』─個人の身体は誰のものか

フォトスケープ

作品情報

  • 上映期間: 12月5日(金)~1月15日(木)
  • 監督: 飯塚花笑
  • 出演: 中川未悠、前原滉、中村中、イズミ・セクシー、真田怜臣、六川裕史、泰平、渋川清彦、井上肇、安藤聖、岩谷健司、梅沢昌代、山中崇、安井順平、錦戸亮
  • 上映時間: 106分
  • 製作: 2025年/日本
  • 配給: 日活、KDDI

あらすじ

高度経済成長期の日本で実際に起きた「ブルーボーイ事件」を題材に、性別適合手術の違法性を問う裁判に関わった人々の姿を描いた社会派ドラマ。

1965年、東京はオリンピック景気に沸いていた。国際化に伴い売春の取り締まりが強化される中、性別適合手術を受けた「ブルーボーイ」と呼ばれる人々が存在していた。戸籍は男性のまま女性として売春をする彼女たちは、売春防止法では摘発対象にならなかった。

警察は、生殖を不能にする手術が「優生保護法」に違反するとして、ブルーボーイたちに手術を施した医師・赤城を逮捕し、裁判にかけた。

一方、東京の喫茶店で働くサチは、恋人にプロポーズされ幸せの絶頂にいた。ある日、赤城の弁護を担当する弁護士の狩野が、サチのもとを訪れる。実はサチには、赤城による性別適合手術を受けた過去があった。サチは狩野から、赤城の裁判に証人として出廷してほしいと依頼される。

主人公・サチ役のキャスティングにあたってはトランスジェンダー女性を集めたオーディションを実施。ドキュメンタリー映画「女になる」に出演経験はあるが演技は初挑戦の中川未悠を主演に抜擢した。サチのかつての同僚たちをドラァグクイーンのイズミ・セクシーとシンガーソングライター・俳優の中村中、弁護士・狩野を錦戸亮が演じた。

監督は「フタリノセカイ」などトランスジェンダー男性というアイデンティティを反映させた作風で国内外から注目を集める飯塚花笑。


この映画が問いかけるもの

12月20日に観たこの映画は、性同一性障害で性に対する違和感に苦しむ人たちの物語でした。
ブルーボーイたちに手術を施した医師・赤城は「優生保護法」違反として逮捕され、何年にもわたり裁判で時間を費やすことになります。

ここで重要なのは、本人が望み、医師がそれに応えたという事実です。

誰の権利も侵害していないにもかかわらず、国家(法)が「勝手に身体を加工した」と医師を罰したのです。
これは「個人の体は国家のもの」という当時の優生思想的な空気感そのものです。

社会が「普通」や「健全」と定義したものから外れる人を「管理」し、「コスト」を抑え、「繁殖(次世代への継承)」を阻むという一貫した冷酷さがそこにあります。

優生保護法とは何だったのか

優生保護法は、1948年から1996年まで日本に存在した法律で、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的とし、障害者や特定の疾患を持つ方々に、本人の同意なしに強制不妊手術(優生手術)や中絶を認めていました。

私がこの優生保護法に出会ったのは、10年前か15年前に爆笑問題の番組、確か『探検バクモン』でハンセン病患者に会いに行く企画を見た時に遡ります。

もしかしたら、この記事を読んでいる人の中にも覚えている人は多くいるかもしれません。

その時、アシスタントのサヘル・ローズさんが、ハンセン病患者の夫婦が本人の同意なしに強制不妊手術されたことに言及し、涙していた姿を今でも思い出します。

それだけ過酷な内容だったのだと、今でも強く認識しています。

サヘル・ローズさんはイラク戦争で家族を失い、孤児院を経て養母と来日するという壮絶な過去を持つ方です。

その彼女が、自身の経験ですら比較にならないと感じるほどに心を揺さぶられたハンセン病患者の方々の体験談は、まさに「人間の尊厳を根こそぎ奪う」ような過酷なものだったに違いありません。

優生保護法については、このブルーボーイ事件における性同一性障害の問題だけでなく、ハンセン病患者への強制不妊手術、障害者の無給問題など、多くの深刻な要素を含んでいます。

そして今もなお、日本社会に深く根付いている部分があります。

この点については、別の記事で改めて深く掘り下げたいと考えています。


映画の中で示された日本国憲法

この映画では、優生保護法と並んで、日本国憲法13条と24条が上映中に明示的に示されていました。

通常の映画レビューとは異なる視点から、この作品が提起する憲法的な問題について考えてみたいと思います。

日本国憲法第13条─個人の尊重と幸福追求権

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

この条文は、個人の尊重と幸福追求権(自己決定権など)を保障し、基本的人権の基礎となる極めて重要な条文です。

全体主義を否定し、個人の尊厳を最優先する日本国憲法の根幹をなし、プライバシー権やライフスタイルに関する決定権など、多様な権利の根拠となっています。

条文のポイント

  • 個人の尊重: すべての国民は、一人の人間として尊重されるべきであるという原則
  • 生命、自由及び幸福追求権: 生命、自由、そして幸福を追求する権利は、国政のあらゆる場面で最大限尊重されるべき
  • 公共の福祉: これらの権利は無制限ではなく、他の個人の権利や公共の利益と調和させる必要がある

重要性

  • 憲法全体の基本原則である「基本的人権の尊重」の基礎であり、他の多くの人権規定の根拠となります
  • 自分の人生をどう生きるか(性、家族のあり方、ライフスタイルなど)を自らの意思で決定する「自己決定権」を保障する条文として解釈されています
  • 個人の幸福を国家や集団の都合より優先する、個人主義の宣言です

この条文は、第14条(法の下の平等)や第24条(家族生活における個人の尊厳)と並び、日本国憲法における「個人の尊厳」を支える柱となっています。

日本国憲法第24条─婚姻と家族における個人の尊厳

「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」

この条文は、旧来の「家制度」を否定し、男女平等と個人の自由な婚姻・家族形成を保障するもので、同性婚の議論など現代の家族のあり方にも深く関わる重要な条文です。

条文のポイント

  • 婚姻の成立: 夫と妻の合意だけで成立し、戸主の同意などは不要
  • 夫婦の平等: 夫婦は同等の権利を持ち、協力して家庭を維持する義務がある
  • 両性の本質的平等: 性別による役割の押し付けを否定し、男女が対等に生きることを意味する
  • 立法への指針: 財産権、相続、離婚など家族関係に関する法律は、個人の尊厳と両性の平等に立脚して作られなければならない

制定の背景 戦前の「家制度」では戸主(家長)に強い権限があり、個人の自由が抑圧されていました。これを廃止し、「個人の自由と平等」を家族生活の基本原則として確立するために制定されました。「両性の本質的平等」という言葉は、性別に関わらず誰もが自由に生きる権利を保障する、先進的な理念として評価されています。

現代における解釈(同性婚との関係など) 近年では、「両性」が男女のみを指すのか、「両性の合意」が同性間の婚姻を排除するのかが議論されています。「同性婚を禁止する」とは明記されていないため、同性婚を認めるべきだという意見や、認めないことは憲法24条2項の「個人の尊厳」に反するという見解もあります。札幌高裁では、24条1項が「人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻を定める趣旨を含み、同性間の婚姻についても保障している」との判断が示されたこともあります。

近年の論点

  • 夫婦別姓: 婚姻後にどちらかの姓を名乗る強制が「個人の尊厳」や「平等」に反するかどうか
  • 同性婚: 第1項の「両性」という表現が、同性婚を禁止しているのか、あるいは「当事者の合意があれば自由」として認めるべきものなのか

ブルーボーイ事件が残したもの

映画の中で描かれた裁判は、医師の有罪という結果に終わりました。

そしてこの事件をきっかけに、日本における性別適合手術は長らく「違法」という認識が広まり、医療の発展が約30年間停滞することになります。

1990年代後半になってようやく再開されましたが、事件が生んだ医療の空白期間(技術遅れ、人材不足)は今も残っており、現在も海外で手術を受ける人が多いなど、事件の影響は続いています。

この事件が与えた教訓

  • 性別適合手術は、本来の目的(当事者のQOL向上)と、法的な解釈(優生保護法適用など)が大きく乖離していました
  • 社会の無理解や偏見が、医療行為と当事者の人生に与える深刻な影響

曖昧さという武器

日本においては、障害(特に精神障害)や性といったデリケートなテーマについて、社会的な議論や制度的な対応において、慎重な姿勢や曖昧さが残りやすい側面があると感じます。

少しでも都合が悪いと感じる事柄に対しては、曖昧な回答が常套手段であるかのような印象を受けます。
あえて曖昧な表現を用いることで、その場の状況を不明瞭にする。
これは一つの見方に過ぎませんが、日本社会の特徴の一つかもしれません。

映画の終盤で検事が言いました。

「歴史が証明しますよ。」

これは、否定的だった検事が言い放った言葉です。

検事はおそらく、「否定されるでしょうから見ているといいですよ」と考えていたのでしょう。

ところが、今では全く逆の解釈になっているかもしれません。


最後に

日本国憲法第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される」と定めています。

この重要な理念が、現実社会のあらゆる場面で本当に十分に実現されているかについては、立ち止まって深く考える必要があるのではないでしょうか。
そして、優生保護法は1996年まで存在していました。

優生思想は今もなお、形を変えて生きています。
たとえば、障害者の労働において:

- 「戦力にならないから賃金を払う必要はない」
- 「体験させてあげている」

こうした言葉は、雇用する側が優位に立つ見下しの構造を示しています。
障害者を「支えられるべき対象」としてのみ捉え、対等に働く労働者として認めない姿勢は、旧法の「社会の負担を減らす」という発想と根底でつながっています。
知らず知らずのうちに、私たちはそれに加担していたかもしれませんし、あるいはその影響を受けていたのかもしれません。