
上映情報
上映期間:9月26日(金)\~終了未定
監督:ジェーン・シェーンブルン
出演:ジャスティス・スミス、ジャック・ヘヴン、ヘレナ・ハワード、リンジー・ジョーダン
上映時間:100分
あらすじ
毎週土曜日22時半。
謎めいた深夜のテレビ番組「ピンク・オペーク」は、生きづらい現実世界を忘れさせてくれる、唯一の居場所でした。
ティーンエイジャーのオーウェンとマディはこの番組に夢中になり、次第に番組の登場人物と自分たちを重ねるようになっていきます。
しかし、ある日マディは去り、オーウェンは一人残されてしまいました。
「自分はいったい何者なのだろう?」知りたい気持ちと、それを知ることへの怖さとの間で、身動きが取れないまま、時間だけが過ぎていくのです。
中学生の頃の自分に思いを馳せて
またまた、少し難しくてわかりにくい映画をシネマテークたかさきで観てしまいました。
最終的には何を言いたかったのだろうか?
中学生の頃を振り返ると、
「この世界は何だろう」「自分はいったい何者だろう」
といった疑問は、アイデンティティが芽生え始める時期と重なるのではないでしょうか。
その頃を思い返した時に、生きることや他人との関係性についても、様々なことが見えてくる時期なのではないかと、この映画を観ていて感じました。
様々なブログや映画.comなどを参考にしながらなんとなく掴めたものは、「生きづらさ」がキーワードなのかもしれないということ。
もちろん、これは中学生ならではの感覚であり、大人になる直前の、まだ成熟しきっていない頃の感覚に近いものだと感じました。
そして、ここには現在の障害ゆえの生きづらさも絡んでいるため、どの程度これと一致するのか、それとも想定された上での生きづらさなのか、といったことも考えさせられました。
あの頃、みんな同じだった
あの頃、日本もアメリカもテレビが輝いていました。
深夜番組も面白かったのですが、『ピンク・オペーク』はまったく深夜番組とは言えません。
それなのに、両親はオーウェンに見せてくれません。
私の時代の深夜番組といえば、日本では『11PM』でしょうか。
これも、まさに深夜番組とは言い難いです。
中学3年生になっても、22時15分に寝ることを強要する両親。
オーウェンは喘息の薬で幻覚を見ていたのでしょうか?
誕生パーティーでオーウェンが突然壊れてしまった時、皆が真顔で固まった様子が印象的でした。
固まるというよりも、その場でフリーズした光景は現実世界ではない、まるで別の世界にいるような印象を受けました。
夢中になれるものは
テレビは、今よりもっと「夢中になれるもの」でした。
家庭や友人関係、セクシュアリティに生きづらさを感じていたオーウェンとマディにとって、テレビは逃避場所のような「夢中になれるもの」だったのではないでしょうか。
現実世界は虚無感や憂鬱に満ちています。
マディは、このままでは自分が消えてしまうと感じ、住んでいる街や自身のアイデンティティという現実から逃避し、ピンク・オペークの世界に自分を投影しました。
居場所がないと感じて消えてしまいたい気持ちも、理解できないわけではありませんが、内容的に、今の自分自身を直視できずに、他のもの(テレビ)に逃げてしまっているという点は、今の自分にも響くものがあります。
本作では、オーウェンとマディがそれぞれ過ごす世界のどちらが現実なのか、最後まで分からないという点が斬新だったと感じています。
あらすじにもあるように、マディはその場を去ってしまいます。
ここにいたら壊れる、だから一緒に行こう、と誘うのですが。
片方は辛い現実と日々向き合っている一方、もう片方は現実逃避を続けています。
そして、10年後くらいにマディは戻ってきます。
その時もまだ、現実逃避していたのでしょうか?
この映画では、5年後、10年後、20年後と視点を変えた映し方なのですが果たして人は変わるのでしょうか?
現実と向き合ったオーウェンは、年を取るまでそれを引きずっていたようです。
この生きづらさは、大人になっても変わらないのですね。
ただやり過ごし、逃げ惑うしかないようです。
容赦なく恐ろしい結末に、ただ呆然としてしまいました。
現実と虚構(テレビの世界)が入り混じる様子が秀逸で、映像の色味も美しく、随所で流れる音楽も非常に効果的に機能していました。
深夜のテレビ番組という魅力的な世界を通して、別の世界を覗くような視点。
テレビが衰退期を迎えた現代のティーンエージャーにとっては、全く知らない常識かもしれません。
監督が描きたかったもの
後からいろいろ調べてわかったのですが、ジェーン・シェーンブルン監督にとって、これは「10代の頃に見たかった、自分や世界を理解するための助けになるような作品」として創られたものだそうです。
監督はトランスジェンダーコミュニティが「egg crack(卵を割る)」と呼ぶ瞬間について語っています。
それは「もうわかった。私はトランスジェンダーだ。そのことからは逃れられない」と認める瞬間で、とても恐ろしいけれど、同時に解放への第一歩でもあるのだと。
オーウェンが最終的に自分の胸をカッターで切り裂き、そこからテレビの光が溢れ出すシーンは、まさにこの瞬間を象徴していたのですね。
映画全体を彩る人工的な光—テレビの光、ネオンサイン、ゲームセンターの光。
監督は「平凡で普通とされる郊外の環境の中で、自分なりに美しいものや煌めきを見出そうとする行為」だと表現していました。
トランスジェンダーの体験を通して描かれてはいますが、その本質は「自分が何者かわからない、居場所がない、周りに合わせることに疲れた」と感じるあらゆる人の心に響くものだと思います。
わからないままで
中学生という時期は、子どもでもなく大人でもない、自分が何者なのかもわからない、不思議な季節です。
この「曖昧さ」や「わからなさ」こそが、実は最も誠実な状態なのかもしれません。
映画を観て「よくわからない」と感じることも、実はとても健全な反応なのだと思います。
なぜなら、人生の最も大切な部分は、言葉で説明できないものだから。