
なぜ私は怒っているのでしょうか
2024年11月の兵庫県知事選を見ていて、胸の奥底から湧き上がる怒りを抑えきれませんでした。
立花孝志氏の過激な行動。竹内元県議の悲劇的な死。斎藤知事のパワハラ疑惑。そして、それらすべてを「仕方ない」で片付けようとする社会の空気感。
私が怒っているのは、立花氏個人でも斎藤氏個人でもありません。この国が長年放置してきた「抜け穴だらけの仕組み」と、「曖昧にしておけば丸く収まる」という逃げの姿勢なのです。
起きてしまった現実を振り返ります
事の発端は、2024年7月の元西播磨県民局長の自殺でした。斎藤知事のパワハラを告発した人物の死。それでも県議会の百条委員会は「証拠なし」で幕を閉じ、斎藤氏は再選されました。
そこに現れたのが立花氏です。「2馬力選挙」という手法で選挙制度の抜け穴を突き、竹内元県議を「黒幕」と名指しで攻撃。自宅前での拡声器演説まで行いました。
そして2025年1月18日、竹内氏が自殺。立花氏は「竹内氏が逮捕予定だった」とSNSで発信しましたが、これは県警に「明白な虚偽」と否定され、後に謝罪しました。
立花氏自身も3月に霞が関で刃物攻撃を受けるという、まさに負の連鎖が続いています。
「ルールの隙間」で踊る人たち
立花氏の行動は法的には不起訴でした。公職選挙法の抜け穴を突いただけ、という理屈は確かに通ります。
でも、だからといって許されるのでしょうか?
法に触れなければ何をしてもいいのでしょうか?
この疑問は、選挙だけの問題ではありません。私が以前ブログで書いた障害者の職場体験の話もそうです。中学生の無償労働は労働基準法違反なのに、障害者の実習は「原則無償」が当たり前とされています。この明らかな不平等も、制度の隙間で「合法」とされています。
外国人観光客が酔っ払って路上で寝転んでSNSにアップする光景も同じです。海外なら危険極まりないのに、日本では「治安がいいから大丈夫」とネタ扱い。注意することもありません。

この国は「明確に禁止されていないこと」を放置しすぎています。
曖昧さの中で失われるもの
日本には「言わぬが花」「察する文化」があります。確かに美しい面もあるでしょう。
でも、その曖昧さが人を殺すこともあります。
元西播磨県民局長は公益通報者保護法の適用を受けられず、孤立しました。竹内元県議は執拗な個人攻撃にさらされ続けました。二人とも、もっと明確なルールと保護があれば救えたかもしれません。
「察してくれ」では、もう限界なのです。
私たちはどこへ向かうべきでしょうか
立花氏や斎藤氏を個人攻撃しても何も変わりません。彼らを生み出したシステムこそが問題なのですから。
必要なのは:
兵庫県選管は規制強化を要望し、他県も対策を検討しています。これは前進です。でも、まだ足りません。
安心して声を上げられる国へ

この一連の騒動で、少なくとも一つのことが明らかになりました。
私たちの社会には、まだまだ改善すべき「穴」がたくさんあります。
それらの穴を埋めるのは、政治家だけの仕事ではありません。私たち一人ひとりが「おかしいことはおかしい」と声を上げ続けることから始まります。
曖昧さに甘えず、明確なルールを求める。そして、そのルールがすべての人を守るものになるよう監視し続ける。
それができて初めて、この国は本当に「安心安全」な場所になるのではないでしょうか。
あなたは、どう思われますか?