1. はじめに:映画の基本情報と鑑賞前の印象

『終わりの鳥』は、2024年に制作されたイギリス映画で、幻想的かつ詩的な世界観が特徴的な作品です。監督はダイナ・O・プスィッチ、主演にはジュリア・ルイス=ドレイファス、ローラ・ペティクルー、アリンゼ・ケニが名を連ねています。
上映時間は110分。限られた上映期間(5月16日〜5月29日)ながらも、強い印象を残す映画体験でした。
この映画を観る前、正直なところ「死」をテーマにした作品には、どうしても重苦しさや陰鬱な雰囲気を覚えてしまいがちです。けれど、予告編からは、どこか幻想的で、不思議なユーモアさえ漂う印象を受けました。
一羽の鳥が死の象徴として登場し、それが人間の言葉を真似るという設定 -この突飛なモチーフに、私は奇妙な引力を感じていたのかもしれません。心のどこかで、ただ「怖い」だけではない、別の感情に触れられるのではないかという予感があったのです。
2. あらすじ:チューズデーと<デス>の出会い
物語の主人公は、余命わずかと宣告された15歳の少女・チューズデー。彼女は病床にありながらも、どこか達観したような静けさを湛え、日々を過ごしています。そんな彼女のもとに、ある日、突然一羽の奇妙な鳥が現れます。その鳥こそが、本作のタイトルにもある存在 -<デス(DEATH)>です。
この<デス>は、死の化身でありながら、私たちが想像する「死神」とは一線を画しています。姿を自在に変え、人間の言葉を巧みに操り、時に歌を奏でるこの鳥は、不気味でありながらどこか親しみを覚えさせる存在です。まるで、人間の心の中に潜む「死」のイメージを、具象化したようにも感じられます。
チューズデーはその異様な鳥の登場を、恐れるどころか、むしろ冗談交じりに迎え入れます。死が間近にあることを知る彼女にとって、<デス>の存在は突然降って湧いた災厄ではなく、いわば予想されていた「客人」のようなものだったのかもしれません。

一方で、彼女の母・ゾラはこの状況をまったく異なる視点で捉えます。留守から帰宅したゾラは、愛する娘の元にいるこの不気味な鳥を目にした瞬間、本能的な恐怖と拒絶に駆られます。そして、<デス>を娘から遠ざけようと、常識では考えられないような行動を取り始めるのです。
ここで物語は、単なる「死との対峙」ではなく、
「死を受け入れようとする者」と「死を否定しようとする者」の対立、
そしてその交錯へと深みを増していきます。チューズデーとゾラ、そして<デス>。この三者の関係が、静かに、けれど確実に変化していく過程が、本作の核心にあります。
3. 不気味でユーモラスな「死神」の描かれ方
本作に登場する<デス(DEATH)>は、「死神」としては異例の存在です。私たちが慣れ親しんだイメージ、たとえば黒いマントをまとい、大鎌を携えた恐ろしい存在とはまるで違います。
この<デス>は、巨大なオウムのような姿をしており、人間の言葉を完璧に模倣することができます。その声は、どこか機械的でありながらも、生々しい感情を孕んでいるようにも聞こえます。まるで、誰かの「最期の声」が再生されているような、不思議な感覚を呼び起こすのです。
この鳥は、人の心の「残響音」に取り憑かれている存在です。
「死にたくない」「苦しい」「助けてくれ」「殺してやる」
そんな断片的な叫びや願いが、彼の頭の中を絶えずこだまのように反響しています。<デス>は、ただ命を奪う存在ではなく、「死」に直面した者たちの切実な声と共に生きているのです。言い換えれば、彼は“死の記憶”を背負って生きる存在でもあるのでしょう。
それでもこの鳥には、不思議な愛嬌があります。ときに冗談を言い、ときに音楽のように語りかけ、ある時は一人で踊り出すことさえある。まるで、死の重さを軽やかに包み込もうとしているかのようです。
そして特に印象深いのは、チューズデーの前で見せる穏やかな態度。彼女の言葉を真似るその声に、死の恐怖ではなく、なぜか安らぎのようなものを感じてしまいます。もしかすると、チューズデーの静けさが、彼の内なる「雑音」を一時的に沈めていたのかもしれません。
彼の口からこぼれた一言——
「俺の頭の中を、静寂で満たしてくれた」

それは、死神からの感謝とも取れる、どこか優しい響きを持った言葉でした。
4. ゾラの行動と母の愛の異質さ
娘の死が目前に迫っていると知ったとき、人は何を思い、どのように行動するのでしょうか。
ゾラは、余命わずかなチューズデーの母親として、理性よりも本能が先立つような行動を次第に見せていきます。
彼女が自宅に戻ったとき、娘のそばにいたのは、明らかにこの世のものではない存在 -死の象徴<デス>でした。ゾラはすぐにその鳥の不気味さと「意味」を直感的に悟ります。そして、恐れと拒絶、そして強烈な母性が彼女を突き動かしていきます。
ゾラの取る手段は、常識的な尺度では到底理解し難いものです。たとえば、死神を騙し、追い出し、閉じ込めようとすらする。現実にはあり得ないような方法で、娘の命を「延命」させようとするのです。その姿は時に滑稽で、時に狂気じみてさえ見えるほど。
しかし、その極端さこそが、彼女の「愛の形」を象徴しています。
自分の命を削ってでも娘を守りたい。目の前の死に、どうにか抗いたい。
それは、理屈や論理ではなく、「もう失いたくない」という強烈な叫びに近いものです。
ゾラの行動は、観る者にさまざまな感情を呼び起こします。
「あまりにも突飛すぎる」「そんなこと本当に可能なのか?」
という疑念を抱くと同時に、
「それでも、母親なら……」
という共感が、ふと胸をよぎるのです。
本作は、愛と死、理性と本能のあいだに横たわる曖昧な境界を丁寧に描き出します。ゾラの姿を通して私たちは、愛がいかに人を突き動かし、時に人間を非合理へと導いてしまうか、その複雑な感情の深層を垣間見ることになるのです。
5. 鳥が残したもの ― 残響、静寂、そして温もり
物語は、チューズデーの死という避けられない現実をもって、一つの区切りを迎えます。
しかし、物語は終わりません。彼女の死後も、<デス>の存在は静かに母・ゾラのもとに残り続けます。まるで、失われた命の“余韻”として、その空間に漂い続けるかのように。
この<デス>という鳥は、常に人の「残響音」に取り憑かれている存在です。
死に際に叫ばれた言葉、押し殺された想い、届かなかった祈り——
それらすべてが彼の内側に反響し、途切れることなく渦巻いています。
けれど、チューズデーだけは違っていました。
彼女はこの鳥の頭の中を、「静寂で満たした」存在だったのです。
喧騒と苦しみに満ちた世界に、短いながらも安らぎをもたらしたその瞬間。
だからこそ、鳥は何かを返すために、娘の死後も母の元を時折訪れます。
「様子を見に来た」
「そこに、まだ音が残っている気がした」
そんな風にも聞こえる姿で、何も語らず、ただ現れ、ただそこに“いる”のです。
ある場面では、夕暮れの室内で、ゾラと<デス>がただ黙って並んで立っている描写があります。
差し込む夕陽、物音一つしない空間、人間と鳥が背中合わせに佇む様子——
そこには、喪失の痛みを越えた、奇妙な安らぎと共鳴がありました。
人は、死を完全に受け入れることなどできないのかもしれません。
けれど、失った後の世界に、少しの静けさと温もりを見つけることはできる。
<デス>は、死をもたらすだけでなく、「その後」にもそっと寄り添う存在だったのです。
このようにして、<デス>はただの終わりではなく、記憶と感情が生き続ける“余白”として描かれます。
その描写は、決して劇的ではないけれど、心の深い場所にひっそりと降り積もる雪のように、静かに、確かに残るものとなっています。
6. 星新一的感覚と文学的余韻
この映画を観ている最中、そして観終わった後も、ふと頭をよぎったのは星新一の短編小説たちでした。
星新一の作品には、短いながらも深い洞察とひねりがあり、読み終えたあとにふわりと余韻を残す不思議な魅力があります。
『終わりの鳥』にも、それと似た感覚が確かに息づいています。
たとえば、不気味でありながらも妙に人懐っこい<デス>のキャラクター。
ユーモラスな言動、予測不可能な行動、そしてどこか寂しげな背中。
この鳥の存在は、星新一の短編に登場する、人間とは違う理屈で動く知的生命体やロボットのようでもあります。
彼の物語には、「死」や「別れ」といった重いテーマを扱いながらも、それを一歩引いたユーモアと冷静さで包み込むような手触りがあります。
『終わりの鳥』にも、まさにその空気が漂っているのです。
死は恐ろしいものかもしれない。
けれど、こんな風に寄り添ってくれるなら……。
そんな風に、観る者の想像力を静かに刺激し、問いかける。
一見すると不条理にさえ思える物語の展開が、あとからじわじわと意味を帯びてくる。
それは星新一の作品に通じる、 “静かな衝撃”のようでもありました。
さらに印象的だったのは、「物語の終わり方」です。
何か大きなカタルシスがあるわけでもなく、結論を押しつけるような説教くささもない。
むしろ、空白や余白を大切にしながら、「この後の物語」を観客自身に委ねるような終わり方。
この手法こそ、短編小説の名手たちが用いる、最も洗練された終わらせ方の一つです。
そう思えば、この映画自体が一つの文学的な掌編だったのかもしれません。
星新一の本棚の隙間に、この映画を1冊の薄い本として差し込んでも、きっと何の違和感もないでしょう。
7. 終わりに:この映画が私たちに問いかけるもの
『終わりの鳥』は、「死」を描いた映画です。でも、それだけじゃない。
観終わったあとに残るのは、恐怖でも絶望でもなく、妙にじんわりとした温かさでした。
死神というと、私たちはつい「怖いもの」「連れて行かれる存在」と考えてしまいます。けれど、この映画に出てくる鳥は、どこか不器用で、少しおしゃべりで、時々おかしくて、でもたしかに“誰かの終わり”に寄り添おうとしている存在でした。
チューズデーが亡くなったあとも、鳥はときどきゾラの前にふらっと現れます。
何をするでもなく、ただ「様子を見に来たよ」って雰囲気で。
それを見ていて、ふと思いました。
死って、消えることだけじゃなくて、「残るもの」もあるんだなって。
人の言葉や、部屋の匂いや、静寂の中に残る“誰か”の気配。
そういうものが、私たちの心のどこかにずっと生き続けていて、たとえ姿がなくなっても、何かがそばにいるような気がする。
この映画は、そんな「残響のような存在」の話なのかもしれません。

最後のシーン、夕焼けを背に、人間と鳥が無言で並んで立っている姿。
あれはもう、「死」でも「生」でもなくて、ただただ“時が流れていく”瞬間でした。
切ないけど、悲しくはない。不思議と、安心できる風景でした。
人によっては、「思ってたのと違う」「よく分からなかった」と感じるかもしれません。
でも、そういう感想も含めて、この映画が持っている余白なんだと思います。
誰かに寄り添い、誰かを失い、それでもまた生きていく。
その静かな繰り返しを、こんなふうにそっと描いてくれる映画は、なかなかないと思います。
あなたはこの映画を観て何を感じましたか?